★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★ ★● ★● <<思い出の山>> ★● 思い出の山 10 選(最終章) ★● ★● 「息子と登った、利尻岳」 ★● やがて私も人並みに結婚して、一男二女の子宝にも恵まれた。 「息子たちだけはヨ〜。山にやるなヨ〜」と山男の歌にあるが、私の場合は家内や子供たち、特に1人息子(長男)には、本物の大自然に時間を惜しまずに触れさせてやりたいと思っていた。 やっと小学生になった長男を由良川源流のキャンプ釣行に連れ出した。もちろん小さくとも自分の着替え・おやつ・雨具などは自分のリュックに詰めて背負わせ、山道を数時間歩いてのキャンプである。 そして現地で調達した、イワナ・ヤマメと山菜を夕食の食材にした。長男は自分で釣った魚を美味そうに食べた。 また、小学 3 年生の夏には、始めての北アルプス、後立山連峰の唐松〜五竜〜鹿島槍を小屋泊りで縦走。 この時の山行記録からホームページ「おとこ YAMA」を開設して、情報発信を始めた。 (http://www2.justnet.ne.jp/~stsuhara/) 小学 5 年生の春、京都市左京区の自宅から京都北山と丹波高原を縫って走る鯖街道を福井県の若狭まで、2 泊 3 日のテント山行をした。若狭に着いた時、地元の老人から、「僕。まあ、よう京都から歩いて来たもんやなア〜」と呆れられた。 「昔の人は、『京は遠ても十八里』と皆歩いて来たものなのに」、と私たち親子にとっては取り立てて特別なことと思っていた訳ではなかったのだが...。 この頃から冒険家の植村直己に傾倒していった長男から、「僕も雪洞で寝てみたい」とせがまれ、近郊の雪山に雪洞を掘りに行った。この雪洞山行も春山での山スキー行の定番となり、荒島岳や加越国境に足を伸ばすきっかけとなった。勿論、家内や娘たちとも比良や加賀白山などへもテント泊で登った。 幸いなことに、我が家では「おとこ YAMA」と称しての長男との山行が家内や娘たちの所謂「女の子チーム」にも公認のものとなり、夏の南アルプス千丈・甲斐駒や塩見・間ノ岳・北岳、北アルプス鳴沢・針の木などへ登ることが出来た。また、冬の南木曽岳へも山のメーリングリストのオフミ参加という形で登らせて頂いた。 今回、「思い出の山10選」の最終章として、書かせて頂く北海道の山旅は、長男との山行の節目として、長男を「連れていく登山」から、「パートーナーとしてともに登る登山」へと脱皮する山旅でもあった。 中学2年生となった長男は、急に見違えるほど男の子らしく逞しく成長していた。 その夏休みを利用し、北海道の大地に渡って、これまで登ってきた山とは一味違うであろう、利尻・大雪〜トムラウシ・羊蹄山を登る 11 日間の山行計画を立てた。 1997 年夏、舞鶴港からフェリーに乗り、30 数時間の日本海航行を経て、小樽港へ着岸した。 8 月 16 日、早朝 4 時。 港に着いた私たちは、愛車のダイハツラガーを駆って、海岸道路を一路、稚内を目指してひた走った。途中、コンビニ弁当で朝食を済ませ、稚内に近づくと左手前方に海から黒く大きくそそり立つ利尻岳が私たちを出迎えてくれる。 稚内発、午前 11 時の利尻島行きフェリーに飛び乗り、鴛泊港に到着。入山届けのため鴛泊の駐在所に立ち寄る。駐在さんから「厳しい山だから..。」、と注意を促され続いて、「二人とも山の経験は充分あるのか」と問われ、「はい。まあ、それなりに...。でも注意して登らせて頂きます」と入山届けも無事済ませた。 いよいよ、海抜0メートルからの登山が始まる。途中、千両亭に寄って昼食。ボリューム満点の海鮮ラーメンに、北の海の幸を満喫し、今日のキャンプ地である、北麓キャンプ場へ約 1 時間、のんびりと歩を進める。 かつて見た利尻岳は、新婚旅行でこの島を訪れ、島を周回するバスの車窓から眺めたもので、いつしか 20 年に近い時間が流れていた。 その時には陰も形もなかった長男と今こうしてあの時眺めた、あの頂きを目指しているのだ。タイムスリップをしたような、何か言葉に言い現し難い不思議な気持ちであるが、決して悪い気のするものではない。 予定のコースは、「鴛泊コースの鴛泊港から歩いて登り、沓形コースを下山路として、岬の海岸線まで」と決めていた。 利尻登山はやはり、「海抜 0 メートルから登って、海抜 0 メートルまで下る」という拘りのような思い入れがあったからだ。 北麓キャンプ場は、林間の落ち着いた雰囲気が漂う気持ちのよいサイトだ。管理人さんの「無料だけど、協力してほしいんだな」という特徴ある言いまわしの3つの注意事項を神妙に聞いて、早々に幕営する。 旅の疲れも少し感じて、夕食まで仮眠する。昼食に少し贅沢をしたので、夕食は簡単に済ませ、明日の長丁場に備えて、早々にシュラフに潜り込む。キャンパーが遅くまでアルコールに飲まれて「サッポリビールゥ〜。黒ラベルゥ〜」と少し騒々しいが、気になるほどのものでもない。 8 月 17 日、3 時半起床。 5 時、キャンプ場出発。 冷気漂う針葉樹林の中をゆっくり進む。 途中、甘露泉で喉を潤し、5合目へ。昨日フェリーを降り立った鴛泊港がもう遥か下に煌いている。 ほどなく、森林限界の低木帯となり 1,000メートルにも満たない高度で北アルプスの稜線のような様相を呈している。 「北の山なんだあ〜」と今更ながらに関心する。 かつて、軽登山靴を履きザックを担いだ新婚旅行で訪れたのは 5 月の連休を過ぎた頃のことであった。その時の利尻は、今回の黒っぽくかつ重量感ある利尻と違い、純白のものであった。このときから脳裏にこの白いピラミッドが焼きついて離れなかった。 また、その旅行では礼文島にも足を伸ばし、標高 490メートルの礼文岳山頂に残る雪渓のような残雪と這松に驚かされた。その時の昼食が、漁業協同組合の売店で仕入れた、蒸パンと缶ジュースという質素なものであったことも、今では懐かしい思い出である。 ほどなく稜線にでて更に眺望が開ける。 海岸線にはガスが纏わり付いているが、時折その切れ目から海岸線も覗き見られる。 長官山からは、山頂のピラミッドが更に近づいて、いやがうえにも登高意欲をかきたてられる。 登るにつれて斜度も増し、崩壊の進みつつあるザレ場の登山道に息が上がり心臓の鼓動も高鳴る。 やっとの思いで沓形ルートの分岐に到着。ザックをデポして頂上をピストンする。 日曜日ということもあって、お社のある狭い頂上に大勢の登山者が溢れている。 間近に見るローソク岩が圧巻である。 記念写真を撮って、早々に沓形分岐に戻る。 大半の登山者は鴛泊コースを往復するようだ。私たちが沓形ルートを目指すと聞いて、「私たちも」と着いてきた女性の 2 人連れと沓形ルートを登って来たと言う単独行の男性が私たちに続く。 かなりの急傾斜を下降し、トラバースにかかる手前でコンクリートブロック大の落石(恐らく人口落石)が長男をかすめるが幸い大事には至らなかった。トラバースは、「親知らず子知らずの難所」との標識がある不安定なガレ場である。 私が先に立ってトラバースを始めた矢先、小規模な落石が上部からパラパラという感じで幾つも砂煙を立てて落下して来る。 暫く様子を伺い見るが、どうにか収まったようなので、上部に神経を尖らせつつ間隔をあけて一人づつ足早にトラバースし、無事に全員が渡り終える。 鎖を張った逆層の岩場を登り切ると三眺山頂上に至る。荒々しいニードルが連続する仙法志尾根が絶景。小休止し暫し眺望を楽しむ。 後は、延々と続く尾根道をひたすら下る。 湿っぽそうな 7 合目避難小屋までやっとの思いで到着。更に 5 合目林道までが、また遠く感じられた。 林道からはタクシーも呼べるようで、展望台には電話が備え付けられている。丁度、キャラバンが予約の登山者を迎えに来ていた。私たちと前後しながら、一緒に下山してきた女性の 2 人連れはこのキャラバンに相乗りすることとなる。 私たちは、「初志貫徹」とばかりに林道を早々に下りにかかる。途中、下ってきた親切な乗用車から「乗りますか」と声を掛けられるが、「有難う。でも...歩きます」と丁重に断って、林道脇の巨木を楽しみつつ海岸線を目指す。 お盆を過ぎた北の果ての山とはいえ、日中の日差しは強く、水分の補給にだけは気を配った。長男も実によく歩いた。 振り向けば、ガスに隠れてしまっていた利尻がヒョッコリと姿を現して、私たちを見送ってくれているかのようだ。 長男に「最高のご褒美やな」と声を掛けるが、登りには相当の馬力を発揮した長男も、12 時間に近い行動にさすがに疲が出た様子で、コクリと頷くのが精一杯であった。 沓形の町に着いて、酒屋さんに立ち寄り乾杯。もう海岸線にある、沓形岬キャンプ場は目の前だ。 近くの公衆電話から、鴛泊の駐在所に無事下山の報告を入れ、落石の情報も念のために伝えておく。 沓形岬は環境庁の管理する清潔なキャンプ場である。 幕営を済ませて、海抜0メートルの証にと海水を触りに行く。広場のベンチを借りての、夕暮れの迫り来る夕食に至福の時を感じる。 テントに戻りシュラフの上に寝転がると、ほどなく睡魔に見舞われる。 どのくらい時間がたった頃か、「お父さんマイクで呼んでる」と長男に揺り起こされ、テントを這い出すと、本当にパトカーがやって来ていて、マイクで私たちを呼んでいる。 「落石についてもっと詳細の情報が欲しい」とのことでパトカーに乗せられ、町役場の会議室へと案内された。 会議室には町長さんを始め多くの関係者が既に集合しておられて、落石に遭遇した状況をありのままに説明する。 シーズン前にも、かなりの規模の崩壊があったことが大判のカラー写真で示され、ルート閉鎖も含めた対応策が長時間に亘って真剣に協議された。 結局、「注意を徹底して呼びかけることで様子を見るべし」という対応策が取られることとなった。 戻ったキャンプ場では、繰り返し利尻岳登山者に落石の注意を喚起する放送が流されていた。 翌朝、島の周回バスに乗って鴛泊港から、フェリーで再度稚内に戻った。 私たちは、次の山である大雪〜トムラウシを目指して、最北の地から今日の宿泊地である、旭岳山麓のキャンプ場へと向かった。 (終り)
第3日 8月16日(Sat) 〜小樽港から,利尻へ〜
第4日 8月17日(Sun)
第5日 8月18日(Mon) 〜稚内へ戻り,旭川へ〜 |
私の回顧録のような「思い出の 10
山」になってしまい大変恐縮しています。
京都北山の「セピア色をした麗杉荘の写真」の様な遠い記憶の中から印象に残っている山々を選んで、これまでの私自身の山行を振り返らせて頂きました。
私がこれまでの山行を通じて感じて来たことは、「大自然の前に人間が如何にちっぽけで無力な存在か」ということです。
私たちの大先輩たちは、これら大自然の前では常に謙虚な態度で敬虔の念を持って接してきたように思います。
私が丁度、北海道の山旅をともにした長男と同じ年齢の中学
2 年生の時、テントもなくポンチョウとシュラフを携えて、初冬の京都北山に、生まれて初めての 1
泊単独山行に出掛けたことがありました。その時、下山ルートを踏み違えて終バスに乗り遅れ、トボトボと重い足を引きずって夕暮れの林道を歩いていると、親切な山仕事帰りの車に拾われ、麓の民家に招き入れらたのでした。
「僕、ひとりで山で寝て来たんか。熊に引かれるで」とポツリと語った主人から、囲炉裏であぶった焼き立てのお餅を振舞われ、おまけに車で町まで送って頂いたものでした。あの時の焼餅の香ばしい味は今も忘れることはありません。
その頃は、北山の山歩きなどで民家に立ち寄ると、湯茶や漬物を振舞われ親しく囲炉裏端で話し込んだり、山小屋に同宿した登山者とも同じ山仲間という意識での温かい触れ合いがあったものでした。
兎に角、人の情の温かさというものが嬉しかったし、山登りの一方での大きな魅力でもあったのです。
思い出の10山に、京都北山の麗杉荘、比良山系の望武小屋、後立山連峰の唐松岳頂上山荘の3つの山小屋を書かせて頂いたのも、これらの小屋に集まって来る、人たちとの心の触れ合いが私にとって大きな意味を持っていたからです。
最近は社会全体が自然への敬虔の念を忘れ去ったかのような気がします。
また、昔と比べ物にならないくらい設備の行き届いた、最近の山小屋は、何かと便利になった反面、かつてその場に集う岳人たちの心の触れ合いも何処かへ行ってしまったかのよう気がしてで淋しいくてならないのです。