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★●                <<思い出の山>>
★●            思い出の山 10 選(その6)

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★●           「後立山連峰、唐松岳頂上山荘」     
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 高校三年生の夏、加賀白山での合宿山行を終えた私は、友人の T 君と後立山連峰の唐松岳を目指し、霧雨の煙る八方尾根を登った。

 唐松岳の頂上山荘には、私たちワンゲル部 OB の K 先輩が働いておられて、この K 先輩を頼って、唐松、五竜岳を登る計画であった。

 当時は、大糸線の旧国鉄駅も現在の白馬ではなく、信濃四谷といっていた。
 
 合宿の疲労からか予定よりも随分時間を費やし、やっとの思いで辿り着いた唐松山荘。ダウンジャケットを羽織って、颯爽と現れた K 先輩から、振舞われた温かいきしめんと、その時代の山小屋では珍しかったネルドリップのレギュラー珈琲の香りは本当に有難く、今でも忘れることができないものであった。

 おまけに「丁度、小屋も忙しい盛りや。何日か手伝っていけ!」と言葉を掛けてもらい、唐松、五竜に登って先に帰京した T 君を見送り、2 週間にも及ぶ居心地のよい居候生活を過ごすこととなったのである。

 K 先輩は、山荘では幹部クラスで、たまたま小屋に居られた経営者の奥様からも信頼が厚く、私は高校生であるにもかかわらず厚遇で接せられた。

 ワンゲル部とは別に応援団にも籍を置いていた私は、最盛期を過ぎた小屋番アルバイトの下山パーティーで、K 先輩の命令と缶ビール、唐松山荘名物「ミヤマカクテル」(ミヤマカクテルとは、当時、山荘に京都大学医学部登山会が夏山臨時診療室を開室しており、シーズンオフには余った注射液のブドウ糖やビタミン剤をドライジンで割って作ったカクテルである)に釣られて、余興に「鉄腕アトム」の演舞を披露させられ、三枚目として、爆笑の渦とともに場の盛り上げ役を務める羽目になった。それ以降、この山荘では「アトム」の愛称で呼ばれることとなってしまった。

 「アトム、来年また大学に入ったら正式のアルバイトとして来てね」と山荘の奥様や皆に見送られて八方尾根を下った。

 大学に進学して山岳部に入部した私は、3 週間の北アルプス夏山合宿に参加する為、山荘のアルバイトを諦めざるを得ず、部活漬けの日々を送っていたのだが、京都の大原にある金毘羅山の岩場で岩トレ中に転落事故を起こして左足首を複雑捻挫。松葉杖の世話になる事態に陥った。

 合宿前にギブスは何とか取れたが、ハードな山行をこなすには程遠い状態で、結局、リハビリを兼ねた 40 日間の山荘アルバイトに入ることとなった。

 幸い売品や生鮮食料の荷を背負う八方尾根往復のボッカは丁度よいリハビリとなり、アルバイト期間の後半にはすっかり足首の不安も払拭されていた。

 日当 750 円(といっても、当時、山荘の 1 泊2食付の宿泊代が 1,450 円。京都〜富山・京都〜松本の運賃が学割でそれぞれ 900 円であった)。皿洗い、小屋掃除、ボッカに明け暮れた山荘生活は、あっという間に終わり、帰京後は冬山合宿を目指して、部活とトレーニングを再開した。

 3回生の夏山合宿を終えて、現役 OB となってからはまた、山荘の長期アルバイトに復帰した。勿論、現役の間にも合宿の合間をみては、この山荘に機会ある毎に足を運んでいた。

 秋の小屋閉めやゴールデンウィークまえの小屋開きにと、シーズンオフには少人数の山好きの精鋭が集まり、仕事は結構ハードであったが格別の充実感と山荘仲間としての連帯感と友情が芽生えていった。

 5 月にはスキーを担いで登り、黒部側に残る雪渓の滑降を愉しんだし、あるシーズンの小屋開きでは、ヘリコプターの荷揚げを T 君と担当して、山麓の栂池高原、親ノ原からの最終便に搭乗し、生まれて初めてのヘリ登山も経験した。

 僅か 7 分間で、一挙に 2600m の雪煙舞う稜線へ飛んだ。中日本航空のヘリコプター204B は上昇とともに急旋回して、八方尾根の上空を飛行した。大型ロープウエイに乗って、映画でも見ているかのような夢見心地のなかで気が着くと、もう山荘のヘリポートに降り立っていた。

 山荘の主な仕事は、新人は、配膳・皿洗い・小屋掃除・ボッカ等を、経験者はレストハウス・売店・調理場のグループ責任者を、幹部クラスは、山荘を訪れる地元のガイドや遭対協(遭難対策協議会)、県警、環境庁、税務署、保健所等の怖い人たちの接待や経理、仕事全般の総括などを担当したが、夜中の急病人や遭難事故の発生、台風接近時などの非常事態には、昼夜を問わず 24 時間労働となったものだ。

 特に遭難事故発生時には、通報者からの正確な情報収集や時には現場確認、県警や遭対協、常駐隊(山荘には常駐隊唐松班が常駐していた)との連絡・調整、救助隊の接待や救出ヘリの誘導など、失敗の許されない緊張感の中で、迅速かつ正確に事態を処理していくことが要求された。

 台風接近時なども、気象通報の伝達と縦走禁止や下山・山荘停滞の指示を遭対協、常駐隊と連携して宿泊客に動揺を与えないように徹底しなければならなかった。

 こういった場合に役に立ったのは、「お前、俺」の信頼関係で、普段からの親しい人間関係の形成では、やはり酒豪ぞろいの連中との酒での付き合いが肝心で、そんなに酒の強くなかった私も自然に鍛えられていった。

 また、私たちが登山者として何気なく分けてもらっている「水」の確保も、水に恵まれない環境にあるこの山荘では非常に重要な仕事であった。小屋の黒部側山頂直下に残る雪渓の大小がキーポイントで、梅雨の長雨にたたられたシーズンは残雪が少なく、湧水のポンプアップに苦労した。時には、不帰側の急斜面に残る雪渓にザイルをフィックスし、大型ポリバッケツを背負子にセットして雪を担ぎ上げる命懸けともいえる厳しい作業も経験した。

 山荘での長期間の共同生活では、私も若かったし、当然のごとくに片想いの恋も経験した。

 何事もなく、夕食を終えた静かな山荘は、緊張感がほぐれて充実感を感じる瞬間である。

 黒部の谷を隔てて夕暮れ迫る剣岳のシルエットと鶴がくちばしを天に伸ばし羽を広げたような三の窓の雪型(剣:ツルギの名の由来とされる、鶴来の雪型)を山荘の前のベンチに腰掛け、彼女への思いと重ねながら、いつまでも眺めていた。

 今も私の脳裏にしっかりと焼き着いている、この唐松山荘から望む、形の整った剣岳のピラミッドと立山連峰へ続く稜線の美しさは、後立山連峰のなかでも一番だと思っている。
                               
(終り)

                               


 

 

 

 

 

 


小屋開けシーズンの唐松山荘


八方尾根を飛行する荷揚げヘリコプター 
(後方は白馬三山)