★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★ ★● ★● <<思い出の山>> ★● 思い出の山 10 選(その5) ★● ★● 「比良山、望武小屋」 ★●
比良連峰の中心部にある小さな山小屋、望武小屋は、永年にわたって関西の岳人に愛されてきた。 「比良連山に最初にできた山小屋。1934(昭和 9 年)、日本アルコウ会の故角倉太郎さんを中心に、武奈ヶ岳が望める現在の場所に建設された。(中略)現在の管理人・京都府山岳連盟の石川栄一さんは、30 年ほど管理の任にあたっている」と「比良・朽木の山を歩く」(山本武人著 1998 山と渓谷社)に記されている。 昭和初期に建てられた、15人も入れば満杯となるこの小さな山小屋には、私にとっても特別の思い入れがある。 初めてこの小屋を訪れたのは、高校 2 年生の秋のことであった。私が高校で在籍していたワンゲル部の OB で先輩の K 氏(カラコルム遠征の経験もあり、また、後立山連峰唐松山荘の先輩としても、私に多くの影響を与えた K 氏は、先ごろ若くして急逝されてしまわれた)から、この小屋の冬越しの薪割り作業への参加呼びかけで、11 名のメンバーが岳連の石川さんのもとに集ったもので、高校ワンゲル部有志数名もこの中に含まれていた。 私は、実家が銭湯をしていた関係で、ボイラーの燃料には雑燃といって、製材所からでる挽粉(ヒッコ)を中心に、工務店からの建築廃材である古い柱なども引き受けていた。私も当然、これらの古い柱を切り刻んだり割ったりする仕事を手伝っていたので、鋸や鉞(ヨキ)の使い方には、他の都会育ちの部員たちよりは少しばかり自信を持っていた。 私の山日記(1968.11.23)に、「1 日目の 23 日勤労感謝の日は、切っては運ぶ作業が続いた。僕も20 センチ位のを倒した。10 回以上往復。小屋の前に積み上げて日が暮れた。小屋には 11 名の薪割り部隊と 7 名の泊り客。夕食を済ませて、小屋の外から K 先輩の自慢の歌声が響いてくる。僕も外に出て瞬く星空を見上げる。3 回の流れ星。大阪からきた二人連れの女性の隣で山の話に夜がふける」、と高校 2 年生にしては少しばかり生意気なことを記している。 以来、部活や個人山行、時には屋根のペンキ塗りの手伝い、小屋番などと、足繁くこの小屋に通うこととなる。 年末には食料と石油ランプを携え、小屋に入って新年を迎えたりもした。生まれて初めてウィスキーを飲んで酩酊してしまったのもこの小屋である。飲み方を知らなった私は、ストーブの傍でつい飲みすぎてしまって、気がついたときには前後不覚に陥っていた。翌日は、二日酔いでガンガンする頭を抱え、金糞峠から青ガレを下った。帰京後も暫くは酒屋の前は顔を背けて通るという有様であった。 大学では山岳部に入部。初めて登った冬山、御岳飛騨側第一尾根で足に凍傷を負った。にも係わらず、帰京後すぐ、腫上って痛い足を無理やり登山靴に押し込んで、この小屋に入って年を越した。 そのとき小屋に登ってきた、二人連れの女子高ワンゲル部員の一人に淡い恋心を抱いたことも遥かなる記憶の中の甘酸っぱい出来事であった。 秋口に蓄えられた大切な薪は、小屋の真中にドッカリと据えられた分厚い鉄板製のストーブで夜通し燃やし続け、翌朝、泊り客を送り出して昼寝をする。時には退屈しのぎにアイゼンを履いて小屋の裏にある八淵ノ滝へ散歩に出かけたり、運動不足の解消も兼ね、武奈ヶ岳に登るパーティーのお供をしたりして過ごした。 石川さんから託された鍵と宿泊予約リストを携えて、鍵の貸し出し者からは鍵の回収、予約以外の飛び込みの宿泊者も結構いて、年末年始は結構満杯となることもあり、パーティー毎のスペースの割り振りや一人あたり 200 円の宿泊代を代理徴収したりして過ごした。少しは使命感もあってそれなりに充実したヒュテンレーベンを送っていた訳である。 下山の報告などで、石川さん宅にお邪魔した折に、奥様から何時も入れていただく美味しい珈琲を頂戴しながら、氏から伺う山の話がまた格別の楽しみであった。 氏からは、「スキー上手になれよ。愉しみが断然違うから」と何時もスキー登山を勧めて頂いた。 ハガ大雪の山スキーにカンダハーの締め具、六角形のトンキン竹ストックにラッセルリングという装備で、初めてスキーを履いたのは、今年の春、不運にも遭難事故に見舞われたものと同じ企画である、大日岳の文部省大学山岳部リーダー冬山研修会に参加した時のことであった。立山町にある登山研修所横の斜面で 3 時間ばかりのスキー講習を受け、次の日から 2 泊 3 日の前大日岳スキー登山を経験した。この研修では、後にエベレスト三冠王となる加藤保男氏、講師で京都大学学士山岳会の松田隆雄氏らとともに禁酒が建前の研修室で一緒に酒を飲んだ。残念にも両氏はヒマラヤの高峰でともに還らぬ人となってしまわれた。 以降、この望武小屋をベースに、当時、リフトが 1 基しかなかった比良山スキー場や武奈ヶ岳周辺でよくスキーのトレーニングに励んだ。武奈ヶ岳へスキーを担ぎ上げ、ツルベヶ岳への北方稜線を経て広谷へ滑り込む。雪の深いときにはスキーが滑らずに苦労したこともあったが、大自然のゲレンデの独り占めを充分堪能した。たとえ私よりスキー技術の卓越した人が「下手糞!」と呟こうとも。 当時は勿論、角倉太郎さんもお元気で、岳連の理事長を努められており、登山大会等を通じて面識もあった。角倉さんのご子息とは大学卒業後にも情報システム関連の仕事とスキーの両面で親交を続けていた。また、角倉氏は八丁平の保護運動にも力を注がれた。阿部恒夫氏との共著「比良−研究と案内」(1966、山と渓谷社)は、私たちにとって比良登山のバイブルであった。 この望武小屋と共に過ごした数年間は、私に冬山技術習得への格好のゲレンデと忘れ難い青春のヒトコマを与えられた時期でもあったのだ。 冒頭で紹介した、山本武人氏の著書、「比良・朽木の山を歩く」の出版記念会が朽木村で開かれた際、久々に石川栄一さんにお会いした。氏と帰京をお供させていただいた折、氏が愛宕山の千回登山を目前にされていることを知った。ご高齢を全く感じさせない氏のバイタリティーが伝わってきて嬉しかった。 「生涯現役」を語らずして実践されている後ろ姿から叱咤の声が聞こえて来るようで、寧ろ少し現役を退きかけているような今の自分が恥ずかしい気持ちになった。 60 数年に亘り風雪に耐えてきた望武小屋は、今も武奈ヶ岳を見上げるイブルキノコバといわれる小高い丘の上に佇んでいる。 2000.8.9
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