★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★●★ ★● ★● <<思い出の山>> ★● 思い出の山 10 選(その2) ★● ★● 「火伏せの神、愛宕山」 ★●
京都の市街地から望む北方の山並みには左右にひときわ高い山があい対峙する。 右手には最澄をはじめ法然、親鸞などの仏教者を生み出した仏教の母なる山「比叡山」が、左手には火伏せの神を祀り民衆に親しみの深い「愛宕山」(アタゴサンと京都人は発音する)が聳える。 愛宕山は京都のみならず全国に火伏せの神として愛宕信仰を広めている。市内各地にも愛宕講として、「阿多古祀符火迺要慎」と書かれた、愛宕神社の「火の用心」のお札を授かる為の代参が行われたりしている。京都の町家の台所など火を扱う所にはよくこの「火迺要慎」が貼られているのを見かける。 私の住んでいる左京区市原地区にも「愛宕大神」と刻まれた愛宕講の石碑とお札を納めておく箱(近年はモダンなステンレス製の円筒形のものになった)が祀られている。 また、三歳までに子供を愛宕山に登らせると、一生火事に遭わないという言い伝えから、日曜日などには幼児を連れた家族連れが登っているのによく出会う。 我が家も長女、長男、次女と 3 人の子供をそれぞれ登らせた。長女は片道を歩き山頂で昼食の後眠り込んでしまった。長男は往復を歩き通し、途中「三歳登山ですか?」と声を掛けてくる登山者へ、「いっぺんも背負ってませんでえ〜」と一緒に登った祖父の自慢の種となった。次女は 7 合目でギブアップして結局は背負って登るはめになった。 また、愛宕山には千日詣といって、7 月 31 日の夜間登山で登れば千回登ったご利益があるといい、登山道には行列ができる程の賑わいをみせる。 京都の北山に広く分布する、「松上げ」と称する松明行事の火の祭典は、この愛宕信仰が引き継がれたもので地蔵信仰が根源にある。 松上げは、京都で地蔵盆が行われる 8 月 24 日(地蔵菩薩の縁日)に主として行われて来たもので花背、八枡、広河原、美山町芦生(あしう)から県境を越えて、福井県南川流域の名田庄村から小浜に至る若狭街道の沿線に分布している。 中でも広河原で行われる松上げは、大堰川と由良川水系の分水嶺の峠である、佐々里峠の地蔵様をお迎えして村の地蔵堂にお祭りすることからこの行事が始まる。高さ 20mを越える檜の丸太(燈篭木:トロギ)の頂きにつけられた笠(モジ)を目指し、上げ松と呼ばれる松明をくるくる回しながら投げ上げて点火するもので、愛宕神社への献火として行われる勇壮な火の祭典である。8 月 16 日の夜に行われる大文字の五山の送り火で有名な精霊(しょうろう)送りの行事(京都では精霊のことを「ごしょうらいさん」という)と、この松明行事は異なるもので、これと類似した火の行事として各地に展開されている、五穀豊穣を祈願する虫送りの行事とも性格を異にするものである。 愛宕山は天応元年(781)、慶俊僧都が鷹ヶ峰の阿多古社を山上に移して、愛宕権現と称するようになったものであり、また、早くから真言密教の行場の山として多くの修験者を集めてきた。火難や盗難の災いを都に入れない塞神の役割を果たしていたものが、仏教と習合し平安中期の塞神の地蔵化とともに本尊を地蔵菩薩とするようになり白雲寺を成したもので、北方には地蔵山を頂き周辺には多くのお地蔵様が祀られている。現在の愛宕神社となったのは、ずっと後の慶応 4 年(1868)の神仏分離によるものである。 近づき難いエリートの山とも言える比叡山より、マイナーな修験者の山、お地蔵様の山として一般大衆から親しみを持って登られてきたのが愛宕山であるといえる。 愛宕山は、麓の清滝から2時間半位で登れる山だが、坂道は割合急で、運動不足の肥満体には厳しい山だ。この山にキスリングに50キロに及ぶ石を詰め「ハイカーに負けるな!」と登らされた、大学山岳部時代のボッカ訓練も今では後遺症の膝痛に懐かしい思い出を引きずっている。 我が家の「火迺要慎」も少し煤けてきた。久しく愛宕山に登っていない証拠で、お札を交換に近いうちに登らなければならないと思っている。 (第二話終り)
(参考文献)
八木透「京都北山の松上げと愛宕信仰」 |