「西国巡礼の道(1) 旧街道を繋いだ、自転車ツーリング」 津原 重久
山中越は、今も京都から滋賀県側に行く場合、国道1号線のメインストリート(旧東海道の逢坂山:相坂山)が渋滞するときなどには、私なども時折、抜け道として越えることがある。
私の小学生の頃には、観光バスを仕立てた町内会のリクリエーションで、琵琶湖へ泳ぎに連れていってもらうときなどには、たいていこの山中越を走ったものだった。また、当時は、琵琶湖の水も随分と綺麗で南湖の真野浜辺りでも充分に泳ぐことが出来たし、水面下の砂を足の指先で探り当てて、貝類を沢山拾うことも出来たものだ。
この山中越には、左京区の北白川から登っていくこととなるが、当時道路は、京都側が地道で、山中越の峠の向こうの行政区の異なる滋賀県側は既に舗装がされていた。夏のシーズン最盛期には、この道も結構渋滞することがあって、渋滞して動かないバスに向って、アイスキャンデーを売り歩く人がどこからともなく現われることから、峠の集落のことを別名、「アイスキャンデー村」と呼んで、私などは、買ってもらえることを結構楽しみにしていたものだ。
旧道は、京の修学院村一乗寺から、瓜生山(うりうさん:301m)を越えて、志賀峠から志賀里村もしくは南志賀村へと通じていたものである。
また、別名を「安土海道」、「白川馳せ道」などとも呼ばれて、歴史は平安時代にまで遡る。
「古今和歌集」にも、「志賀の山越え」として歌に詠まれ、信長の時代には、安土城と京との往来にこの道が使われた。安土海道の呼称の由来であると考えられる。また、「馳せ道」は近道、すなわちショートカットの意で、京から西近江路(北陸道)へは、日岡峠と逢坂峠の二つの難所を行かねばならない旧東海道よりも、より直線的かつ短時間で琵琶湖岸に往くことが出来たことから、そう呼ばれたものであろう。
一方、如意越は、銀閣寺から、京都市内を一望する大文字山の「大」の字の火床に登り、さらに三角点のある大文字山山頂(466m)を経て、如意ケ岳(472m)を越えるものであるが、このコースの途中で如意ケ岳へ向う中間の鞍部から、山科の毘沙門堂へ抜けるコースを子供たちの小さい頃に家族5人で歩いたことがあった。
如意越の旧道は、如意ケ岳を越えて、長等山(ながらやま)から三井寺へと通じていた。
そして、それらの次に、近江から京・山科へと越える、小関越がくる。
近年は、「こぜきごえ」という呼び名が用いられるようになったが、私たちは子供の頃から、「おぜきごえ」と呼び習わしてきている。
小関越は、旧東海道の逢坂の関の間道として、山科から三井寺を経て琵琶湖岸へと至るもので、逢坂越を大関ともいうことから、小関という呼称が用いられたものであるという。
古代の官道である、北陸道(ほくろくどう)は、大和平城京から出発北上し、奈良坂を越えて山城の国に入り、木津川沿いを宇治の六地蔵から、山科を経てこの小関越で湖岸に出た。そして、西近江路を北上し湖北を山越えして、敦賀から北陸・越前へと通じていたものである。つまり、小関越そのもが逢坂越の間道というよりも、歴史を遡れば古代の「官道」であると言えるのではないだろうか。
また、この小関越は、西国巡礼の道でもある。
「関西山越の古道(中)」(中庄谷直著、ナカニシヤ出版)にも、「第十四番の三井寺に参詣し、藤尾村に下り、再び東海道に入って四ノ宮から蓮如上人ゆかりの西本願寺山科別院(東御坊)に立ち寄って汰石(すべりいし)越で第十五番の今熊野観音寺に詣でる」、巡礼の道順が紹介されている。
「山路来て なにやらゆかし すみれ草」
松尾芭蕉は、この峠を越えるときにこの句を詠んだ。貞享2年(1685)、芭蕉42歳。初めて大津を訪れたときのものである。
木屋町四条に、私が学生時代からお世話になってきた創業80周年を迎えたニッカバー、「一養軒」がある。私と高校時代の同級生である、このニッカバーのマスターがお店の常連さんを募って主催する、自転車ツーリングに、しばしばこの小関越を越えるコースが設定されるのである。
このツーリングは、京都から滋賀県の琵琶湖畔に自転車を乗りに行くことが多く、京都が盆地であることから、このツーリングの際には、当然のことながら京滋県境の山越の道を行くこととなる。
今回は、これまでのリポートと少し趣を変えて、私が参加させて頂いたこの自転車ツーリングのなかから、2000年の5月5日に走った、西国巡礼の道をつなぐコースをピックアップして紹介させて頂くこととしたい。
先ず、京都から琵琶湖畔に山越えをする際には、集合場所の木屋町四条を起点として、まさに旧東海道の玄関口である、京の三条大橋を渡り、山科へと最初に山越えする九条山を登ることとなるが、この日はこの九条山の峠に参加メンバー4人が集合することとなった。
そして、この峠を山科へと下れば日ノ岡に着く。
旧東海道の峠は、日岡峠といって、九条山の近くにあった急勾配の難所であった。この旧東海道へは、日ノ岡の先の御陵(みささぎ)にある、天智天皇山科陵の入口から三条通を南側に渡ったところから行くことが出来る。
入口は、かつて路面を走っていた、京阪電車(京津線)の線路跡で、歩行者専用の公園としての整備がなされている。旧東海道は、その先を横切っており、車一台がやっと通れるくらいの細い道で、斜めに九条山の峠近くにまで通じている。
今は人通りも希で、僅かに地元の町内会の日岡峠の改修のことを説明した看板に、その面影を残すのみである。
さて、ツーリングコースは、この日ノ岡の大石道交叉点を左に折れ、暫し急坂を登って行くと琵琶湖疎水に行き当たる。浜大津の取り入れ口から、京都の蹴上(けあげ)へと通ずる疎水の動脈部分であり、疎水沿いには気持ちのよい散策路が続く。散策を楽しむ人やジョギングをする人達に親しまれている道であり、春には疎水沿いに植えられた桜の花見で賑わうところでもある。
この疎水は、琵琶湖第1疎水であり、明治18年(1885)に着工され、殉職17名という難工事の末に5ヵ年を要して竣工し、京都の発展に多大なる貢献をもたらした。「当時の我が国の土木技術では、極めて困難とさえ言われた大津山科間の第1トンネル(延長2436m)の工事は、硬岩と湧水との闘いの中での大変な難工事」(出典:後述、注1)であった。
第1疎水竣工の翌年、日本最初の水力発電所が蹴上に完成し、新しい産業の振興に大きく寄与することとなった。そして、この難工事を成し遂げたことが原動力となって、京都の三大事業と形容される、水道整備、第2疎水工事、市電敷設・道路拡充の明治45年(1912)の完成へと引き継がれ、さらなる京都の発展へと繋がっていったのである。
浜大津からは、琵琶湖岸のサイクルロードを湖面を吹き渡る心地よい風を切りつつ、南に向けて快調に走る。
途中、義仲寺(ぎちゅうじ)の近くを通ることとなるが、この寺名は、木曽義仲を葬った塚(木曽塚)があることからきており、松尾芭蕉の墓もある。
芭蕉は、近江とは深い関わりを持っており、「奥の細道」の長旅から戻ってしばらく、この義仲寺にあった無名庵にも度々滞在しており、幻住庵という石山寺の西にある国分山(大津市国分2丁目)の草庵で、「幻住庵記」を記した。
自らの遺言によって、没後この義仲寺に葬られたものである(芭蕉、享年51歳)。
「旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる」
やがて、蒲鉾型のたいそう目立つ琵琶湖プリンスホテルを過ぎると近江大橋を左に見る。
このツーリングの前年の1999年4月に企画されたツーリングには、親子で参加をさせて頂いた。このときには、前述のコースを経て、この近江大橋を対岸に渡った。対岸の琵琶湖東岸を北上し、その先に架かる琵琶湖大橋を西に渡り返して、先の投稿でリポートさせて頂いた、堅田街道竜華越にて還来神社から、さらに滋賀途中越で大原に抜けるコースを走った。
竜華越のロングの登りで息子の嶺行が、空腹からエネルギー切れを起こし、グループから大幅に遅れてしまうという、「困った親子」を演じてしまった苦い記憶が心に残っている。
やがて、水産センターのある南郷の洗堰を過ぎ、瀬田川の川幅も狭くなって流れも早瀬となる頃、歩道もなくなり仕方なく車道を走ることとなる。
私たちの自転車の列の後を路線バスが追い越すタイミングを計りかねて、長い間スピードを落としたまま辛抱してついてくる。
ようやくバスが追い越していく頃、参拝者で賑わう立木観音への登り口を右手に見る。
「立木さん」の呼び名で親しまれる、厄除けの観音様で、我が家の構成員も例外なく、厄払いの参拝に前厄、本厄、後厄と正月明けには毎年のように、この右手に続く高い石段を踏んで登っている。
立木さんは、寺名を安養寺といい、かつては石山寺の奥の院であるといわれたが、現在は浄土宗の寺院となっている。ご本尊は自然の立木に彫られた観音様であると言われることから、「立木観音」と呼ばれ、全国各地にも同名の観音様があるようだ。
その立木さんのすぐ先の鹿跳(ししとび)橋を左手に見ると、川は大きく右手に蛇行する。川の蛇行に従がって、道路も西に向って走るようになる(鹿跳橋まで、小関越から約16キロ)。
石山外畑町を過ぎて、川が今度は左へと蛇行を繰り返す頃、川の流れは下流の天ヶ瀬ダムに堰き止められ、澱んだダム湖となって、曽束大橋に至る(鹿跳橋から5キロ強)。
主道は橋を渡って、急カーブが連続する、ダム湖の宇治川ラインへと続いているが、私たちは、右手の細い道を取って、急坂に喘ぐこととなる。
この先の畑越の峠まで、3キロ足らずの距離ではあるが、なかなか手強い。
宇治の茶畑が点在するのどかなニ尾(にのお)の集落を越えてさらに坂道が傾斜を増す頃、ツーリングの疲れも出始めて、遂に自転車を降る破目になる。
やっとの思いで畑越の峠に自転車を押して登りつく。
この畑越も、安永7年(1778)編纂の山城州大絵図(出典:「京都への道2」、山田興司著、京都書院)に、牛尾越、岩間越と並んで、「畑越、江州外畑村、出ル」との但し書き付きで、「炭山〜ニノ尾〜外畑」のルートが表されている旧街道である。
しばらくの間、この山上の人造湖を左に見つつ、のんびりとペダルを踏んで走る。
やがて湖面に別れを告げると、志津川の集落を経て宇治川のほとりまで、高度差にして約300mを一気に下る、待望のダウンヒルが待っている。
メンバーの中には、「ここぞ!」とばかりに一気に駆け下るつわ者あり、ブレーキのきしむ音を頻繁に立てつつ下る慎重派もいて、人それぞれ、思い思いに豪快なダウンヒルを堪能する。
苦労が報われるダウンヒルが、瞬く間に終わると、降り立った宇治川の上流には見上げるように天ヶ瀬ダム立ちはだかる。
京阪宇治駅のある宇治川大橋から、右に行けば西国巡礼10番の三室戸寺で、宇治川に架かる大橋を渡れば、10円玉のデザインとなっている平等院に行くことが出来る。
観光客の犇めくなかを擦りぬけて、橋を渡らず右手をとって北上すれば、六地蔵に至る。
山科盆地に流れる山科川沿いの自転車ロードをさらに北上すると、やがて、日量600トンものゴミ焼却能力を有する、京都市の東清掃工場を横目に走ることとなる。
ごみ行政の遅れが指摘される京都市には、この他にも同等クラスの焼却場が4箇所も京都盆地を取り囲むように稼動しているのである。
煙突から立ち昇る煙に少し現実に引き戻されるような気持ちにさせられつつ、川沿いの自転車ロードを行く。
この頃から、我に帰ったように左膝に持病の痛みも出始めて来てしまう。
いよいよ、山科から京へ山越えする、今日のツーリングコース中の最後の上り坂に差しかかる。
忠臣蔵で有名な大石良雄が山科に隠棲していたとき、祇園の「一力」へ遊興に通う際に越えたといわれる、滑石(汰石:すべりいし)街道である。
膝の痛みを堪えつつ、辛いペダルを歯を食いしばって懸命に踏む。
本当にやっとの思いで、メンバーが心配そうに待ちうける峠へと辿りつくことが出来た。
この滑石街道も、また前掲の中庄谷氏の記述の通り、西国14番の三井寺から小関越にて山科に越え、さらに15番の今熊野観音寺へと続く、西国巡礼の山越えの道なのである。
峠道を京都市内の東山区今熊野に下り東大路通を経て、心地よい疲労感と達成感に充たされつつ、出発点の木屋町四条へと戻ってくる(宇治大橋から、約17キロ)。
ツーリングのフィナーレは、中華料理店に入って、「餃子をつまみにビールで乾杯!」がすっかり定番となった反省会へと雪崩れこむこととなる。
酔いも少し回り始めて、今日一日のツーリングの話に花が咲くなか、歴史街道を巡った楽しい(それでいて、少しばかり辛い思いもした)企画は名残惜しい終わりを告げるのである。
息子の先の竜華越でのエネルーギー切れに続いて、このツーリングでは私が膝痛で、メンバーの足を引っ張る格好になってしまった。
当日参加されたメンバーの方々に、この場をお借りして出来の悪い親子の再度の不始末を今更ながら、お詫申し上げる次第である。
<小関越〜畑越 自転車ツーリング、コース概要>
四条木屋町〜三条大橋〜九条山〜疎水経由、小関越
(約10キロ)
小関越〜浜大津〜近江大橋〜南郷洗堰〜鹿跳橋
(約16キロ)
鹿跳橋〜曽束大橋〜畑越〜喜撰山ダム(多田橋)
(約10キロ)
多田橋〜天ヶ瀬ダム〜宇治大橋
(約7キロ)
宇治大橋〜六地蔵〜滑石峠〜今熊野〜四条木屋町
(約17キロ)
合計、約60キロ。
この60キロに及ぶ、北は小関越から、南の畑越を経て、山科の滑石越へと西国巡礼の歴史街道を繋いだツーリングコースの間にも、旧東海道の逢坂越は勿論のこと、近江の石山から牛尾観音を経て山科へと越える牛尾越がある。また西国巡礼の道として古くから歩かれてきた、山科の上醍醐寺から岩間寺を経て、近江の石山寺へと越える岩間越もある。
次回からは、この二つの西国巡礼の道に焦点を当てて、リポートをさせて頂きたいと思っている。
(続く)
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<参考文献・WEBサイト>
「京都への道2」、山田興司著、京都書院
「関西山越の古道【中】」、中庄谷直著、ナカニシヤ出版
「湖国の街道」、浅香勝輔編、ナカニシヤ出版
http://www4.ocn.ne.jp/~zimmer/otsu/genju.html
「大津見どころ・寺院 *幻住庵」
http://japan-city.com/toukai/55/
「東海道一人旅 55.大津宿〜三条大橋へ 」
http://www.ritsumei.ac.jp/fkc/
立命館中学・高校ホームページ、「奈良街道について」
注1) http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2000/biwakososui/biwakososui.htm
産業技術遺産探訪、「琵琶湖疎水」