湖北の湿原散策(その3)

「池河内湿原(いけのこうち)と木の芽古道」  2003年 5月12日(月)

 

池河内湿原に咲いた「ミツガシワ」

 やっと京都にも、連休の喧騒が嘘のように過ぎ去り、静けさが戻った。
 この5月から、次女と参加させていただくこととなった、太極拳の先輩で、私より1歳年上のS氏と湖北(福井県嶺南)に、湿原と古道を訪ねることとなった。
 S氏は、京都大学農学部のOBで、これまでに訪ねた、山門水源の森や中池見湿原の私のレポートに興味を示して頂いて、今回の池河内湿原と木の芽古道をセットにした散策に、同行を頂くこととなったものである。

 池河内(いけのこうち)湿原は、敦賀から東に約6キロ。笙の川源流にある小さな湿原で昆虫類の種類が特に豊富な、学術的にも貴重な湿原として、1977年に福井県の自然環境保全区域の指定を受け、木道を整備するなどの保護が進められている。
 一方、木の芽の古道は、俗に言う「嶺南・嶺北地方」の境を分かつ峠で、その分水嶺は、木嶺とも呼ばれ、これを境に、敦賀方面を木嶺以南、今庄方面を木嶺以北と呼ぶようになったことから、嶺南・嶺北の呼称が用いられるようになったところでもある。

 この木の芽古道は、国道365号線の走る、北国街道から西に孤立した位置にあることから、一般にはあまり知られずに今日に至っている。私はかねてより、この古道と湿原をセットにした散策をしてみたいと思っていた。

 「その道は、すべて、琵琶湖のほとりに達していた。そして、道々は、水の匂いを伝えながら、峠へとつづいていた。ふりかえると、峠の風のむこうに、ひかる太湖がみえていて、旅びとのこころをさびしくした。  ゆく春を近江のひとと 惜しみけり (松尾芭蕉)  近江の国を通過しなくては、日本の国を縦断することができない。人びとは、その近江の国を、天下の回廊とよんだ。そして、琵琶湖を日本のへそとよびならわしてきた。(中略)陸路が網の目のように、近江の国へ集まってきて、峠を越えて去っていってしまう。(中略)  旅に病んで 夢は枯れ野を かけめぐる (松尾芭蕉)  今も、芭蕉の魂は、旅を続けている。旅の出発も、旅の終わりも、この近江の道にある。芭蕉の辞世の句と墓とは、そのことを物語っている。旅、それは、近江の古道を歩む、そこから、はじまっていく。」(「近江の古道」相馬 大 サンブライト出版)

 湖国滋賀県には、琵琶湖を取り巻くように、昔から街道が発達してきた。その主なものは、湖西に、敦賀街道(若狭街道)と西近江路(北陸道)、湖北には、今津と海津を起点として、それぞれ九里半越え(若狭街道)と七里半越え(塩津街道)があり、湖東には、中山道(東山道)と米原で分岐する、北国街道がある。他にも、鈴鹿の山越えの街道を始めとして、幾筋もの街道が発達し、それぞれ悠久の歴史を刻んできた。また、天下分け目の賤ケ岳の合戦を始めとし、関が原、姉川など多くの合戦がこれらの街道を血に染めてきたのであった。

 今回は、中山道や鈴鹿の街道などを除いて、前述の街道をほぼ全て、何らかのかたちで通ることとなるうえ、主として、時代とともに変化していった北国街道(時代の古い順番に山中峠、木の芽峠、栃ノ木峠の3つの峠)を併せて探訪できることも、私の期待をさらに膨らませた。

 5月12日月曜日の朝、S氏と私を乗せた愛車は、一路湖北を目指して疾走した。静原から江文峠、大原を経て、滋賀途中から湖西の国道161号線(かつての西近江路)に出る。
 琵琶湖の風景を右に、左には比良連峰を往き過ぎるころ、鵜川越えの古道分岐にさしかかる。湖面に朱塗りの鳥居のある白髭神社を見ると、まもなく、山側に、「鵜川四十八体石仏」の小さな看板がある。小休止を兼ねて、この看板に従い石仏を訪ねていくこととする。
 この石仏群は、「天文二十二年(1553)に、近江の佐々木氏の一族、六角義賢が、母親の菩提のために造ったと伝えるが、寂しい山道を往く旅人には、大きな慰めになったことだろう。(中略)四十八体のうち、十三体が日吉大社の墓地に移されているが、..」と白洲正子は、「近江山河抄」(駸々堂)に紹介している。残った三十五体のうち二体が昭和26年に盗難にあって、現在は三十三体となってしまった。

 石仏に別れを告げ、再び湖西道路に戻って、さらに北上する。天候は、今一つスッキリとせず、正面に見えてきた箱館山は、ガスのベールを薄っすらと纏っている。今津を経て、ほぼ琵琶湖の西側を半周し、湖北地方にさしかかる。2月に山スキーにトライしたマキノ高原の湖岸寄りを走って、海津へ至る道を左に分ける。早くも琵琶湖を背にして、今度は、北に向けて、山間の登り道へとさしかかる。
 塩津から、敦賀に向かう、かつての塩津街道で、通称、七里半越えとも呼ばれた旧街道である。国境(くにざかい)、敦賀国際と左右に雪が消えたスキー場を過ぎると、県境の分水嶺を越えて、福井県へと入ってくる。過ぎ行く山並みの所々は、淡い緑に色づきはじめて目に優しい。

 

池河内湿原を望む(笙の川源流をなす流水)
 

 平野部に降りてくると国道27号線に合流し、北陸自動車道の敦賀ICへと向かう。
 12月に訪れた、中池見湿原の南側の山を隔てた、木の芽川の流れに沿って上流へ遡り、片側通行の長いトンネルを潜って暫く走ると、右手に「池河内口」のバス停がポツリと立っている。往き過ぎてしまったバス停に戻ってきて、林道へ木の芽川を渡る。つづら折れの林道を登って小さな峠を越えると、山間ののどかな田園地帯が眼下に開けて、直ぐに池河内湿原を示す看板が、目に飛び込んでくる。
 案内板とトイレのある、湿原の入口に車を停める。幸い天候も回復してきて、気持ちのよい陽射しの中で暫し休憩し、野鳥の囀りにじっと耳を傾ける。

 湿地を一周しようと、左手の山道から木道を目指すが、残念なことに、「木道の崩壊により立入り禁止」との福井県の看板に、行く手を遮られてしまう。それでも、近所の人々が、山菜を取りに入っている草地と雑木林は、昔懐かしい、ほのぼのとした、里山の光景を醸し出している。

 木道の入口側に戻ってみたが、同様の看板が立てられてロープが張られている。それでも、近くにミツガシワが咲き始めているのを見出して、シャッターを切る。
 青紫色の鮮やかな、カキツバタも群落の中にポツリ、ポツリと花をほころばせ始めている。最盛期には、さぞかし見ごたえのある光景となることであろう。

 「池河内湿原は、敦賀の3大河川の一つ笙の川の源流部に当り、断層による地殻運動によって造られた盆谷が堰止められて、ここに池が出現したのである。(中略)以上のことから池の発生は、洪積世後期と推定される。」(福井県のすぐれた自然データベース「池河内の盆谷、阿原ヶ池・湿原」)

 池の発生は、洪積世後期と推定されることから、遥かに一万年を超える時を刻んでいることがうかがい知れる。先月の深泥池でも紹介させて頂いた、氷河期の遺存植物といわれるミツガシワが咲いていることも、充分に頷ける訳である。

 保全区域に指定されている、111haのなかで、特に7.8haが、阿原ケ池を中心とした湿原の核心部をなす特別区である。こんこんと湧き出す、笙の川の源の冷たい流れに手を浸してみる。木立の高いところに、野鳥が囀っているのを双眼鏡で覗きみる。

 車に戻ると、地元の婦人と思しき2人連れに出会い、挨拶を交わす。「池河内も今では、4軒を残すのみで、住民も僅かに8人になってしまった。」ことを聞かされる。

 こんな素晴らしい湿原が、なおざりにされているようで、何かもったいないような気がしてならない。1988年に整備されたという、木道の一日も早い再整備を切に望むとともに、野外活動や環境教育の拠点としての施策を打つなど、出来ないものかとも思う。それらを通じて、この山村の過疎対策にも繋げるようなことは、叶わないものなのであろうか。

 分校跡や破れ放題の民家が点在する、集落の間を抜けて、池河内に別れを告げ、笙の川下流に向けて一路、次の北国街道を目指す。

 

木の芽古道(峠の茶屋)
 

 国道365号線と出会って左折。今度は、北国街道を椿坂峠を越えて、栃ノ木峠を目指す。月曜日のせいか少ない交通量に対して、如何にも不釣合いな感じのする立派過ぎる道路を、「ベルク余呉スキー場」の看板に導かれて走る。

 柴田勝家が軍用道として整備し、北国街道の役割を木の芽峠からとってかわった、栃ノ木峠。奇しくも自ら整備した、この街道を秀吉に攻め上られて、勝家は、お市の方と越前北の庄に果てた、賤ケ岳の合戦はNHKの大河ドラマ、「利家とまつ」にも登場した。その所縁の北国街道を次の目的地である、木の芽古道を目指す。

 栃ノ木峠を境に、道路事情は一変して悪路となり、センターラインもない狭い箇所が随所に出現する。急なヘアピンカーブの続く道を左手のスッパリ切れ落ちた谷底に、少なからず恐怖心を抱きながら下っていく。
 「やっとの思い」という感じで、谷底に下りつき、流れを渡ると、左手に、「365やすらぎ」を示す看板を見出す。この今庄365スキー場には、一度、以前に家族でスキーに来たことがあり、何となく見覚えのある道を登っていく。「第○駐車場」との表示を幾つかやり過ごすと、ゲレンデが見えてくる。「ああ、これ、この風景だ」と記憶が蘇って来る。

 腹の虫も泣き出した。「さあ、腹ごしらえ!」とばかりに、事前に仕入れた情報の手打ち蕎麦を求めて、レストハウスに直行。
 「延びないうちにどうぞ」と運ばれてきた、手打ちのおろし蕎麦で空腹を満たす。レストハウスをひとりで切盛りされている、愛想のよい女性に、木の芽峠への道を尋ねると、「是非、言奈(いうな)地蔵にお参りしていって下さい。」と声を掛けられる。

 言奈地蔵は、大きな自然石に線彫りにされた地蔵様で、地蔵堂の萱葺き屋根も真新しい。木の芽峠に続くハイキングルートも整備されている。西光丸、木の芽、観音丸、鉢伏の4つの城址をイラストにした大きな看板の近くに駐車。見上げる先に木の芽峠の茶屋が見えている。

 「私道につき無断侵入禁止」と書かれた私道を登る。「山菜とらないで」の標識が並ぶ先に、萱葺き屋根の峠の茶屋が佇んでいる。その正面には、立派な道元禅師の碑が立っており、茶屋の先に、木の芽城の解説板が立てられている。
 草刈機のエンジン音を響かせている、茶屋の主人と思しき御仁に、「城址に行かせて頂いていいですか?」と声をかけが、「ヤマブキを植えていて、あんたらみたいな人達に踏み付けにされるからダメ!」と不機嫌そうに断られてしまう。
 この御仁のことも、事前に情報を得ていたので、少なからず不愉快にさせられたが我慢して、「そうですか。どうもお邪魔様。」と、きびすを返して、鉢伏山への登山道へと迷わず向かう(触らぬか神に何とか、である)。

 観音丸城址を右手にみて、ゲレンデの中の急な登りに一汗かく。山頂には、リフトの終点とレストハウスがあり、その奥に頂上の鉢伏城址がある。記念撮影をして、水分補給。ペットボトルのウーロン茶が暑い陽射しを受けて、ホットティーに変身していた。
 山頂にある展望案内板は、スキーシーズン向けに高い位置に設えてあり、少々見づらいが、眼下には、敦賀湾を隔てて、12月に登った野坂岳とその延長線上に、敦賀半島が霞んでいる。

 これらの山城は、永禄12年(1569)に信長の越前侵攻に備えて築かれたもので、鉢伏城は、その翌年(元亀元年)の朝倉攻めに対抗して、朝倉方によって築かれたことが看板に記載されている。

 復路は、ゲレンデ通しに急坂を下って車に戻る(登り:25分、下り:15分)。
 一旦、元の道を下っていくと左手に山中峠方面を指し示す看板があらわれる。木嶺沿いに開削された林道を山中峠方面に車を走らせる。途中、左手に山中峠の旧道を示す看板が、踏み跡を指し示しているが、立ち寄る時間的余裕がないので、そのままやり過ごして国道に至る。
 日本海の荒波を右手に、車両が頻繁に行き来する国道8号線を、現実に引き戻されるかのように、敦賀市街に戻る。

 
 
 (コースタイム)

  7:45京都発--静原〜江文峠〜滋賀途中〜国道161号線途中、鵜川四十八体
  仏に立ち寄る〜国道27号線〜敦賀〜10:20池河内(湿原散策)11:30発--12:20
  今庄365スキー場(昼食)12:50--13:05 言奈地蔵13:15発--13:35 木の芽峠
  ⇒14:00 鉢伏山(761.8m)14:05発⇒14:20 木の芽峠--林道を山中峠方面へ、
  杉津(すいづ)を経て、敦賀に戻る。

  (「さかな街」に立ち寄り、やすらぎの湯「リラポート」にて入湯。敦賀ICより、
  北陸・名神高速道路を利用し、竜王ICより、琵琶湖大橋、堅田を経て、
  20:40に帰京。)

 
<参考Webサイト>

 http://www.erc.pref.fukui.jp/gbank/tokusei/d0024f.html
 「福井県のすぐれた自然データベース(池河内の盆谷、阿原ヶ池・湿原)」
 のホームページ