(山と環境問題)

「文化遺産としての京都北山の峠道」

 
貴重な自然と文化を育んだ京都北山

〜30数年の時を経て想うこと〜

 

 私は京都市内下京区の下町で生まれ、育った。今は跡形もなくなってしまった実家は祖父の時代から銭湯をやってきたのだが、都市のドーナツ化現象とともに町は空洞化・衰退化の道を辿り、また銭湯の経営も成り立たなくなっていった。

 東京オリンピックが開催され、あの所得倍増計画に代表される経済復興が絶頂期を迎えつつある昭和40年(1965)頃、中学校に通っていた私は、山岳部に席を置いて市内から北に望める京都北山を中心として、東山三十六峰で有名な霊峰比叡山を筆頭とした東山連峰、西山、比良山系などを駆け巡っていたものだ。

 山岳部入部の動機は、両親がいずれも自然豊かな山村の出身ということも手伝って、小学生の頃などには姉と心待ちにしていた夏休みの「田舎暮らし」での自然体験に拠るところが大である。私の得意の犬掻き泳法は、母の実家のある三重県松阪市の郊外を流れる櫛田川の中流で深みに足を取られて流され九死に一生を得たときの高価な代償である。また、今も趣味として父から私へ、私から息子へと引き継いでいる渓流釣りも、父の実家のあった石川県の大聖寺川支流での雨蛙を釣餌とした少年の頃のウグイ釣りが根底にある。鮎を突く積もりのヤスを自分の膝頭に突き立てて痛い目に遭ったことも懐かしい思い出としてセピア色の古びた写真のように記憶の片隅に残っている。止血にヨモギをすりつぶして使うこともこの時の田舎のたくましい先輩から教わった。

 私にとって自然の中での遊びは、何にもまさる生きた教科書であった。

 中学2年生のときの初単独行、京都北山(以下、北山と略す)への1泊山行は、飯盒と固形燃料をキスリングザックに詰め、テントの替りにポンチョウを三角に張っての野宿で、私にとっては忘れられない成長過程での体験だった。今にして想えば、雪が降っても不思議のない11月の初冬の北山は、低山といえども凛として厳しく、体力・技術の未熟さから道に迷ってバテ切った私を迎えてくれた。終バスに乗り遅れてトボトボと暮れ行く林道を歩いていた私を「熊に引かれるで。僕、ようひとりで一晩、山で泊まってきたもんやなあ」と呆れつつも町まで送り届けて下さった地元の親切な林業家の温かい人情にも触れることが出来た。

 美しい渓流の走る千メートル足らずの丹波高原へ連なる北山は、また、遠くは奈良や京都と若狭を繋ぐ貴重な山域であり、多くの歴史や文化を育んできたのである。

 私の大学山岳部時代には、競技山行として、また夏山への強化トレーニングとして、京都の北区にある私の母校、佛教大学から徒歩で若狭まで「京は遠ても十八里」と古くからいわれる若狭越え、鯖街道の山道を駆け抜ける催しが恒例で、土曜日の午後4時に大学のグランドを出発。参加者が自由に設定する60キロを越える山道のコースを、夜を徹して歩き通して(各自2〜3時間の休憩を兼ねた仮眠は取るようだが)、ほぼ全員が日に焼けた元気な笑顔で(あるものはブトに食われて顔を腫らして)、次の日の日曜日には旧国鉄山陰線を使って京都へ戻って来るのである。

 近年は、鯖街道マラソンというウルトラマラソン大会が催されていて、旧街道の本道をほぼ忠実に一日で山道を駆け抜けるというもので、ツワモノ揃いの参加者が多数完走を果たしている。

 私の若かりし頃の北山山行のバイブル、故森本次男氏の著書「京都北山と丹波高原」にも、京に至る鯖街道、五波谷越の最短ルートと、大正の頃まで若狭の米や鮎がこれらの峠を越えて若狭から丹波に届けられていたこととを指摘されている。

 旧街道の本道は、現在の国道367号線とは別に、鞍馬口(現在の烏丸鞍馬口)を起点とし、深泥ケ池(みぞろがいけ)・私の自宅のある二軒茶屋を経由する、鞍馬参詣の鞍馬街道から尾越〜八丁平〜久多(この辺りは琵琶湖に注ぐ安曇川の源流域で私のテンカラ釣のフィールドである)と北山を通り、江州の小川越(こがわごえ)から、根来坂(ねごりざか)を経て、奈良東大寺二月堂への「お水送り」で有名な神宮寺のある遠敷(おにゅう)へ至るルートである。また、このルートは、日本に初めて象が足利将軍への献上品として南国から渡来し京へ歩いたとも言われている。

 この根来坂は別名、針畑越とも呼ばれ、上杉謙信が都の近くまで軍を進めながら、この坂を後に、越後に引き返したのである。また、元亀元年(1570)の朝倉攻めで裏街道を敗走する総大将信長をカモフラージュして、秀吉と家康もこの針畑越の本街道を小川越から久多、小黒坂、八丁平を経て京へ逃げ帰ったのである。

 また、この街道の途中にある杉峠からの大見尾根は、仁平4年(1154)創設の平家縁の修験道の寺、大悲山峰定寺への参詣道にも使われていた歴史の古い道である。平清盛も若年の頃にこの峰定寺建立の雑掌(工事監督)を勤めたことなどは、特筆に値するもので、あの清盛も若き日に鞍馬街道を幾度となく歩いていたのである。但し、清盛が歩いたのは、杉峠〜大見尾根〜チセロ谷〜八枡越(やますごえ)〜大悲山のルートであり、八枡越は今では廃道と化してしまった。

 一方、京の七口の一つ長坂口を出発点として、京見峠から杉坂〜茶呑峠を越えて山国に至る、丹波路の長坂越(一名、山国越)もかっての幹線ルートとして、古い歴史を持っている。太平記に「道明長坂を経て越前へ落ち行く」と記され。延元3年(1336)新田義貞らの軍勢が京へ攻め入ろうとしたとき「その勢300余騎、白昼に京中を打通って、長坂に打ち上る」とも記されている。

 若狭で一塩された鯖が天秤棒に担がれ夜を徹して十八里(72`)の道のりを駆けて京へ独特の風味となって届けられたのである。

 京の祭につきものの鯖の姿寿司は、私も大の好物だが、この若狭の鯖と北前船がはるか蝦夷の地から運んだ利尻昆布(バッテラ)と江州米という役者が揃って、二百数十年という時を経た今も京の味の文化を醸し出しているのである。

 稚狭考(わかさこう)という江戸末期の書物に、小浜から京へ行く道は三つあるとして、(1)丹波八原通〜周山〜長坂〜鷹峰、(2)渋谷(染が谷=五波谷越え)〜弓削・山国、(3)遠敷〜根来〜久田(久多)〜鞍馬、のルートを記されている。

 現在の雲が畑への川沿いの道も約160年前の文政年間に開かれており、雲が畑街道の延長としての若狭街道(上賀茂〜雲が畑〜井戸〜小塩〜八丁〜佐々里〜五波谷越)もその昔は尾桟敷(おさじき)といって、薬師峠から桟敷岳の尾根を通り、石仏を経て井戸祖父谷から井戸に達していた。また、高野から大原の川沿いの道も以前には比叡山側の比較的高いところをトラバース気味に通っていたものが三本くらい確認できるそうで、時代とともに下の道を利用したらしい。その昔に京から大原へ至る道も平家物語に語られる文治2年(1186)の後白河法皇が寂光院に建礼門院を訪ねる大原御幸(おおはらごこう)の道である上賀茂〜二軒茶屋〜静原〜江文峠〜大原が使われて来たのである。

 明治40年、現在の車道が花背峠を越えるに至って、旧峠と名を変えることとなった現在の花背旧峠、大見尾根の杉峠、入り口にお地藏様のあるフジ谷峠、八丁平の久多側への小黒坂(オグロサカ)などは、今も杉の古木や朽ち果てた石垣等とともに歴史の重みを今に伝えている。特に、かって八丁平には六尺道といわれる立派な道が通っていたといい、その面影を残す古道は、今も湿原の東側をまくように続いている。八丁平への別の入り口にあたるフノ坂は、近年に開かれた道で、本道は、三十三曲坂といわれる(愛宕郡村誌:明治44年刊)小黒坂から八丁平の東側を経てフジ谷峠を通ったのである。フジ谷峠道も小黒坂と同様につづら折れの峠道であり鯖街道としての共通点が感じられる。

 私が学生時代に越えた若狭越の街道は、西から、八峰山の知井坂、五波谷、杉尾坂、と百里が岳の根来坂などである。

 このように遥かいにしえの歴史を育んだ北山を様々な想いをめぐらせながら、子供の頃から歩き続けて来ることが出来たことは、私にとって大きな財産であり、何物にも替え難い幸せであった。

 今では五波谷には林道が通って、かって自分の足で越えた、苔むし深く踏み込まれた古道は廃道と化し薮に埋もれてしまった。

 根来坂も下半分は林道に削られてしまって、今また新たな林道開発が歴史的遺産とも言えるこの旧街道を更に切り刻もうとしているのである。

 「道とは社会的合意の結束である」と社会学的に定義した人がいるが、ある者は天秤棒を担ぎ、ある時は敗走の武将がというように、為政者も庶民もそれぞれの思いで通った貴重な文化的足跡を結束して刻み込んで来たのである。

 北山の尾瀬と称される貴重な高層湿原のある八丁平も林道開通の危機に晒されたが、山岳連盟や自然愛好家の方々の努力で辛うじてルート変更となったが、この開発の影響でフジ谷峠も峠のすぐ近くを、また小黒坂も下半分は無残に林道に削られたまま、ルート変更で放置された。フジ谷峠などはアマゴ釣に峠を越えて江賀谷左俣の水系に入ると季節にはヤマボウシの真っ赤な実がふんだんに取れたもので、ガサガサと野兎が飛び出したりして驚かされたりしたものだが、今は見る影も無くなてしまった。

 この北山という、自然と文化のふんだんに盛り込まれた、歴史遺産でもある薮山は、また、幾多のアルピニストをヒマラヤに送りだし、訪れる者を優しく包み込んでくれたものだ。町の雑踏を離れて、この薮山に分け入れば、身も心も清められる思いがしたものであった。

 かっては、北山に峠道を探し求めての山行には、相当の読図能力を要求されたし、谷の支流をひとつ踏み間違えれば一日の山行を棒に振って、谷沿いに集落までの下降を余儀なくされた(道に迷った時は谷を下るという山でのルール違反は、隆起順平原という滝も殆どない北山のみに許される常識として中学山岳部の顧問の先生からも言い聞かされてきた)。勿論、道標も少ない替りにゴミなどは見掛けることもなかった。

 私が高校生のときの昭和43年(1968)以降、若狭の原子力発電所から関西電力によって50万ボルトの電力を京阪神に供給するために設置された送電線と高圧鉄塔は、北山に色々な意味での大きなダメージを与える結果となる。

 また、人力で木材を搬出する為の木馬道(きんまみち)も北山の風物詩ともいわれたが、これに取って代わったワイヤー式の材木搬出方式から、更に折りからの国産林業の不況も手伝って経済効率を追求するための林道開発は、谷の至るところに大きな爪痕を立てる結果となった。

 北山の谷筋を木馬道を辿って最源流に至れば、わずかに一抱えくらいの小ポイントに良型のアマゴの夫婦が遊泳する様子に出くわすこともしばしばであった。この谷の宝石とも喩られる渓流魚も今では本当に少なくなってしまった。

 渓流釣では、環境破壊の三悪として、林道・伐採・堰堤が言われてきたが、北山も環境破壊の例外とはなりえなかったのである。

 そして、今、また北山は丹波広域基幹林道開発という公共事業に名を借りた目的の不明確な計画の前に更に致命的なダメージを受ける危機に晒されているのである。

 開発された林道を奥まで4WDで入り込んでくる人たちによって空缶やサミットバックに入ったままのゴミが放置され、山小屋のある北山の谷として前述の「京都北山と丹波高原」にも紹介された木馬道の続く美しかった渓谷も今は見る影もない。

 大量生産・大量消費・大量廃棄という物質優先の社会はまるで人々の心まで貧しくしてしまったかのようにさえ思われる。

 私は鯖街道の一つの峠道であり、江戸から明治の頃まで、峠に茶屋まであって「オタネさん」という女性が行き来する行商人たちの接待をしたといわれる「丹波越」という峠道を調べている。僅か数十年という間に民衆の「社会的合意の結束」が時代の潮流の中に埋もれていって所在さえ不明となっているのである。

 他方、所在が現在も明確であるにもかかわらず、その歴史・文化的価値よりも経済を大事とする心の貧しさに故に破壊されていく先人が残してきたこれらの貴重な文化的足跡を私は繰り返しやりきれない気持ちで見送ってきたのである。

 自然もまた貴重な先人から子孫へ守り伝えていくべき遺産と定義すれば、その遺産(資本)の元金に手をつけることなく、そこから産み出される利息を上手に活用してその価値を享受していくような循環型で持続可能な運用が何故図っていけないのか。

 かって、私の生まれた昭和26年の頃に尾瀬が戦後の経済復興への電力供給のためにダムの底に沈められようとした。当時の時代背景のなか、「電気かトンボか」どちらをとるのかと選択を迫られたとき、「NO」と声を上げた先人達の智恵と勇気ある行動に、私たちは、いま学ぶべき時ではないだろうか。


付録:

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<この文章は、ウェブマガジン「山のはなし」(04号2000:02:20刊)に投稿・掲載されたものです>