遥かなる若狭越4
(峠に茶店のあった丹波越)
〜北山クラブの報告〜
旧鞍馬街道の延長として、南は八丁平からオグロ坂、北は小入谷から根来坂をへて遠敷へ至る若狭越の中間地点にあたる江州の桑原から丹波の久多に越える峠路は、80年位前迄峠に茶屋があった程の往来があり、丹波越(たばごえ)又は、桑原越と呼ばれていた。
北山クラブ(昭和32年創立)の昭和53年(1978)の調査報告では「はじめ桑原で聞いた“タバ谷〜丹波越〜岩屋谷(久良谷:くらたに)”が間違いで、実は、“タバ谷左俣オハヤシ谷・東側支尾根〜丹波越〜(経が岳〜)ミゴ谷”が正しかった」としている。
この峠の茶屋を五代前まで営んでいた桑原橋の西沢さんが朽木山行会のメンバーと茶屋跡を確認されている。
「おたねさん」という女性が、その茶屋を守り、行き交う人々を接待したという。おたねさんとはどのような人であったろう。
私は、北からこの丹波越のある江州郡界の稜線に突き上げる久多側の久良谷とミゴ谷には、いずれも渓流釣りで度々入渓し源流近くまで遡行を繰り返していた。ミゴ谷は、割合斜度のある谷で、この谷から稜線に登り、「経が岳の北側の鞍部を経て桑原へ至る、かなり稜線を長く歩いて越える、丹波越の谷である」と北山クラブの報告にある谷である。
久多の老女から聞いた、「私ら子供の頃にはミゴ谷には立派な道がついてたもんや」という話や、ミゴ谷に近い三軒家と桑原の姻戚関係としての往来の話、桑原の男性による夜毎の山越えラブロマンス談などからも、旧街道として往来があったことはほぼ間違いないことと思われる。
〜私の久良谷探索行〜
しかし、私の中には何か釈然としないものが尾を引いていた。というのは、私がテンカラ竿を片手にしばしば入渓してきた久良谷には、薮に埋もれてはいるものの、旧街道を彷彿させる、しっかり踏みこまれた幅広の道が谷の左岸・右岸を渡り返して随所に残っているのを目の当たりにしており、「これは、きっと旧街道に違いない」との思いを温めつづけてきていたからである。
北山クラブのこの報告を見て、「何故、経が岳というわざわざあんな高いところを行かねばならないのか」との思いもいだいたし、朽木観光協会の中野さんも同じようなことを述べておられた。
江戸時代中期の宝暦4年(1754)に成立した「山城名跡巡行志」の「隣国通路」の項に「若狭路」が載っている。「曰、久多越。又は小川越(こがわごえ)と云う」と記され、「鞍馬口より鞍馬に至る、一里二十一町、御菩薩池(みそろいけ)、幡枝、市原、野中、二瀬を歴る。鞍馬より大見に至る、三里十四町、百井を歴る。大見より久多に至る、三里、山路嶮峭。久多より江州高島郡界の峠に至る、一里。鞍馬口より此に至る八里三十五町」とあり、久多から若狭までの約十里と合算すれば、古くから言い伝えられてきた、「京は遠ても十八里」とほぼ一致する。
丹波越の古道を久良谷に求めての探索行は、薮を避けて、残雪期の平成10年4月5日、長男を伴って、江州側御林谷の南の尾根から一旦郡界稜線に出て(このルートは最近、朽木山行会のメンバーにより桑原から経が岳までしっかりと刈込がなされた)久良谷への下降を試みたものである。
朽木山行会々長を兼ねておられる中野さんや桑原橋の西沢さんから、「久良谷の源頭部にそら、立派な道があるんですが、途中で途切れて何処に続いているかわからんのです」と旧街道の名残の存在を聞いており、私が、久良谷を下流から何度か遡行し、二股の左股に滝を掛けた箇所で行き止まりとなり街道の名残も途絶えることから、恐らくはこの滝の右岸を高巻いていると想像していた。話に聞いた旧街道の名残と私が引きずってきた旧街道とを結ぶ接点をイコール高巻き道と想定し、これを確認することがこの探索行の主な目的であった。
桑原橋を渡り、お堂の横に駐車させてもらって、お堂の裏側から稜線の踏み跡を辿る。
旧道はやはり勾配の急なところでは独特のつづら折れをなしている。つづら折れは若狭越の街道の特徴とも言えるもので、小黒坂の三十三曲がり、フジ谷峠道などに顕著である。
「急坂で足でも挫かぬように」との山中を行く旅人の安全に配慮した先人の智恵を感じるものである。
稜線の少し手前から経が岳に向かう道と分岐し、右手へトラバース気味に御林谷の源頭部へと進んでいく。この辺りに、あの、おたねさんの茶屋跡があるとのことであったが確認できずに残雪の詰まった小谷を詰め、江州郡界稜線に至る。地元の古老の「昔は、峠から久多方面に踏み跡が下っていた」という下降路を求めて、北方の三国岳方面へ薮を分けるが踏み後は確認できず、適当な鞍部から久良谷方面への下降を開始する。
北山クラブが「あんな急なところを下っている筈はない」と指摘されていた通り、斜面は急峻で苦労しながらトラバース気味に下降を繰り返し、滝の位置を通り過ぎそうなあたりから、更に下降していくと、はたしてそこに、一見してそれとわかる立派な旧道が現れた。
少々興奮気味にしばらくその旧道を進むと中野さんらの指摘されたとおり岩屋谷側に近づいた辺りで道は、はたと途絶えてしまった。
注意して後戻りしていくと、かすかな踏み跡が南側に下降しているを発見した。
不鮮明だが谷筋まで所々ジグザグも現れ、これを降りきると、何んと久良谷を遡行した際に行き止まりとなる二股右岸の朽ちかけたトチの大木を背にした炭焼き釜跡に降り立った。
余りにも予定道りの結果にかえってキツネにつままれたような気分で、長男に「想像道理やったな」と少し自慢したい気持ちでつぶやいた。
滝を高巻くような急勾配のつづら折れは、特に大雨などの影響を受けやすく、旧街道の跡が残りづらい結果となってしまったのではないかと思われる。
「折角見つけた旧道をもう一度登り返して何処に出るか確かめよう」と旧道に登り返し、更に詰めると滝の上部は再び二股となり旧道は右股に続いていた。
私の誤算は、「滝を高巻いてそのまま谷の上部を詰めて稜線に至るもの」と決めてかかっていたことにあった。
右股を左岸に渡り返して更に進むと小さな滝(4b位)に行き当たり、また道は途絶えた。滝の左岸を簡単に高巻くと源頭の様相を呈し、斜度も緩やかになり比較的楽に経が岳の直ぐ北側の郡界稜線に登りついた。
登りついた位置は茶屋跡とおぼしき峠からは随分南の位置であり、茶屋跡方面への稜線には、経が岳とそれほど標高も変わらないようなピークも越えなければならないことから、「旧街道は多分何処かで右岸の斜面をもっと北側に至るルートをとっていたのでは」と思われた。また、私自身の中に旧街道の上部を探索すべき新たな課題が残った。
〜丹波越ルートの私の仮説〜
そこで、私が当初から想像していた久良谷ルートも、北山クラブが実際に歩いて「地元で聞いた、丹波谷から岩屋谷が間違いで、経が岳を経てミゴ谷を下っていた。実際に歩いてみて久良谷が急すぎて、あんなところをくだるはずがない...」とした経が岳ルートのいずれもが街道として時代を異にして使われてきたのではないかとの仮説を立ててみた。
知井村史に「..明治40年(1907)8月の水害復旧工事、五波谷橋梁二十四箇所(中略)工費負担割合を村八割、部落二割で一律の決定を行なっている。(村議会決定書)」として、「..なお厳しい条件付きで、経済基盤の弱かったなかでの街道の維持は大変であったと思われる」との記述を見ても、久良谷ルートの谷沿いという地理的条件から、水害による橋梁・丸太橋等の流失や春の雪解け時の街道補修がある時期その負担増から諦められて、以降はもともと経が岳への信仰登山や村と村との往来等のルートとしても使われてきた、経が岳〜ミゴ谷の迂回ルートが街道として主に使われることとなったのではないかと考えてみたのである。
つまり、時代の移り変わりを@歴史的にも最も古くから使われてきたと思われる小川越、A新たに開拓された近道としての丹波越久良谷ルート、B水害か何かで荒れてしまった街道の復旧を諦めて以降の経が岳〜ミゴ谷ルートの順に使われるようになったのではないかという仮説である。
このことを裏付ける記録がある訳でもなく、あくまでも私の想像の域を脱するものではない。ただ、久良谷に残る街道跡やラブロマンスなどに触れ、しばし遥かなる想いを馳せてみただけのことである。
真偽のほどを、おたねさんに尋ねてみたいものだと思う。
<文責:津原重久>
<参考文献>
「京都北山と丹波高原」森本次男著 (山と渓谷社アルパインガイド:昭和34年刊)
「北山の峠」(中)金久昌業著 (ナカニシヤ出版:昭和54年刊)
「朽木村志」橋本鉄男編 (朽木村教育委員会:昭和49年刊)
「北山百山」北山クラブ編 (ナカニシヤ出版:昭和63年刊)
「比良・朽木の山を歩く」山本武人著 (山と渓谷社:平成10年刊)
「京の北山ものがたり」斎藤清明著 (京都文庫2、松籟社:平成5年刊)
「京都北山を歩く1」「同3」澤潔著 (ナカニシヤ出版:平成4年刊)
「北山の峠(上)」「同(下)」金久昌業著 (ナカニシヤ出版:昭和53年刊)
「京都美山知井村史」知井村史編集委員会 編(平成10年刊)