遥かなる若狭越3
(魚も越えた五波谷越)
〜生きた鮎も越えた〜
俗に鯖街道と呼ばれる幾筋もの若狭越の峠道の中で、前回は若丹(若狭、丹波)国境の峠道である、大砲の越えた知井坂の話をしたが、今回も知井坂のすぐ東に位置する同じく若丹国境の五波谷を魚が越えた話をしてみたい。
「魚が越えた」と言っても生きた魚が自分で勝手に越えたのではない。しかし、前回お話した知井坂では実際に、「生きた鮎」が若狭南川流域の名田庄村から越えたのである。
運ぶ要領、水替えの場所などの詳しい記録が名田庄村誌に納められており、口銭の割の良い仕事であったという。これは、一般家庭の食用と言うより、美山川への放流事業を担ったのではないかと思われる。また、芦生灰野には昭和初年まで運ぶ人がいたとのことであり、かなり近年まで続けられていたものである。
知井坂がその西の重要路である棚野坂と同様に、若狭から奥丹波へと続く街道であるのに比して、今回お話する五波谷越が若狭から京へと続く街道であることは、若狭堂本の知井坂と五波谷越との分岐にある「右ちさか、左京みち」と刻まれた石碑が物語っている。
京都へゆく魚屋さんは堂本の石の道標にある通り、『左京みち』に従って五波谷を越えたのであろう。京の祭には欠かせない鯖寿司の食材である一塩の鯖や若狭鰈、小鯛、ぐち(甘鯛)などの魚がこの峠を越えたのである。
京の鯖寿司といえば、天明元年(1781)創業の初代いづみや卯兵衛から名をとった「いづう」が有名だが、「京の町衆が好んで食べた若狭の鯖に着目して鯖の姿寿司を売り出し評判をとった」とあることから、京の鯖寿司は200余年の歴史を持っていることが伺える。鯖の姿寿司が流行る前には、主にキズシとして食べられてきたのであろう。
また、五波谷越の更に東に位置する権蔵坂を「子供の頃に名田庄から権蔵坂を牛を引いて米を運ぶのを見た」と語る老人もいたとのことで、由良川源流域の芦生や灰野には若狭から、お米も越えていたことになる。
〜京への最短コースは?〜
さて、京への道として五波谷越を考える場合に、田歌から芦生にいたる断崖絶壁の地理的条件をそのマイナス要素として考慮しなくてはならない。
北山クラブの故金久昌業氏が、「『左京みち』を指してすなわち権蔵坂と一般的に考えがちだが、最短距離としての五波谷越を私はとりたい」と五波谷を支持され、「断崖絶壁を回避してかなり高い所を道が通っていたのでは」との想像を記されている。このことは、平成10年に刊行された「知井村史」に田歌、口芦生間の旧道が写真入りで紹介されており、この写真が山稜近くをトラバースしている旧道の様子を示していることから、金久氏の想像が実際のものとして証明された。
また、私は、「丹波国大絵図」(寛政11年:1799)から、五波谷、芦生、白石を経て佐々里に至り、佐々里から二分して一つは佐々里峠を越えて広河原へ、別の一つは片波を経て、上黒田、芹生へと続いている街道が描かれていることを確認しており、後述する峠の石室との一連の関わりを確信していたものである。
「京は遠ても十八里」といわれる最短コースとして、北山の父といわれる故森本次男氏も「京都北山と丹波高原」のなかで、「実際に日帰りが出来た」と紹介されている。氏の大変な健脚ぶりに敬服するばかりである。
これらの若丹国境の峠道は、大正9年(1920)に知井坂経由の周山・小浜線が、園部・知井線とともに府県道に認定され一層街道の整備が進められたが、大戦を経て、私の生まれた年である昭和26年(1951)の京福道路の完成(棚野坂経由、京都・小浜自動車道路開通)でその役割をほぼ終えるに至るのである。
〜峠の石室は今〜
また、森本氏は「そういえば佐々里峠の峠の石室と同じ作りの峠小屋が五波谷にもあった。そして同じような石室が小浜への途中の小倉畑の畑の中にもあった。これは一連の連絡を意味しているのかも知れない」と記しておられる。
この峠の石室には、私も学生時代に何度かお世話になった。広河原行き京都バスの最終に飛び乗り、ヘッドランプの明かりを頼りに、佐々里峠の石室に一夜の宿を借り、翌日には芦生の京大演習林、廃村灰野を通って由良川源流に入ったものである。昭和49年(1974)に車道がこの佐々里峠を越える前のことであるが、今もこの石室は林道脇に移築、保存されている。
これらの石室は、吹雪の時などには恐らく、行き交う行商人達に安全を保証する避難小屋の役割を担ったものと思われる。隣の知井坂にも同様の避難小屋が3個所あったと伝えられている。
昭和36年(1961)8月、関西電力の電気に見離され廃村となった灰野は、私が学生の頃にはまだ家屋もしっかり残っており、鎌や鍬などの道具が放置されたままであった。真ん中にある囲炉裏を囲んでここでも一夜の宿を借りることが出来た。当時の重い布製のテントを担ぎ雨にでもたたられることを思えばたいそう助かったものだ。今では、対岸の民家はもとより、家屋の跡形もなくその後に植林された杉林が随分と立派に成長した。軌道跡と由良川の間に辛うじて残っている、朽ちかけた祠もつい見過ごしてしまう程である。
五波谷越は、私が学生の頃に何度も越えた若狭越の峠道の中でも好きな峠道の一つであった。旧道は歴史と文化がしっかりと踏み込まれ、苔むして深い溝状をなしていた。
その旧道も今は林道にとってかわられ、通る人もなく薮に埋もれてしまった。
<文責:津原重久>
<参考文献>
「京都北山と丹波高原」森本次男著
(山と渓谷社アルパインガイド:昭和34年刊)
「北山の峠」(中)金久昌業著
(ナカニシヤ出版:昭和54年刊)
「京都美山知井村史」知井村史編集委員会編(平成10年刊)
「京都への道1」山田興司著
(京都書院:平成6年刊)